菊池亮太(ピアニスト/作曲、編曲家)
現代の日本が世界に誇る天才ピアニストとの初対面、緊張感漂う取材エリアの空気感とは裏腹に、柔らかな満面の笑顔で私達は迎えられた。気品に溢れ、ただどこかお茶目な振る舞いに、一瞬でその人柄に私達は魅了され感銘を受ける。
菊池亮太、4歳からピアノを始め、中学、高校と音楽系学校へ進学し日本大学芸術学部音楽学科卒業及び同大学院修了。世界各国での数々のコンクールで入賞を果たし、自身での配信活動においては脅威の "3億回" を超える動画再生数を記録。(YouTubeにて。2024年7月時点でチャンネル登録者数は 69.2万人)
ステージという概念を超越し、国境を越え世界の様々な場所を舞台に感動という名の歴史を刻み続ける。天才だからこその使命と苦境、果てしない努力と慰めの連鎖の先に、彼は今、何をみているのか。ピアニスト菊池亮太という物語にFORTIS読者を誘う。
― 連日お忙しい中、本日はありがとうございます。
菊池:こちらこそ、よろしくお願いします。菊池です。
― ネロ 今日もバケットハット着用なんですね、いつも動画で拝見していて少し期待していたのでとても嬉しいです。
菊池:被ってきてよかった。笑 なんか落ち着くんですよね、特に深めの方が好きです、ピアノを弾いてもあまり動かない方が。
― 黎子 幾つもお持ちなんですか?
菊池:そうですね、数はあるかな、柄物も無地の物もあります、その日の気分で使い分けてる感じですね。
― では早速ですが改めて、まずは菊池さんの生い立ちからお伺いします。これまでピアノと歩んでこられた今に至るまでのお話を。
菊池:僕は4歳からピアノを始めて、最初の転機で言うと小5かな、その時期って周りは中学受験や進路についての会話が増えて、少しずつそういった雰囲気へ移っていくわけですけど、僕の場合、中学受験するにもそんなに勉強はできないし、運動も好きではあったけどいまいちぱっとしないし。そんな折、全校集会の校歌斉唱でピアノ伴奏をする機会があったんです。その時に凄くちやほやされて。それに限らずピアノがある場所で、学校でいうと音楽室とかですね。そこに友達や先生が居合わせて、その場所でピアノを弾くとみんなとても喜んでくれるんです。そういった空間が昔から好きでしたね、凄くいいなって。まあクラスの男子でピアノを弾けるのは僕くらいで珍しかったのかな、でもその感覚は今でも変わらないんです。
その頃からだと思います、大人になってピアノを自分の生業にできたらなって自覚しだしたのは。もちろん当時は明確にピアノを仕事に、なんて思っていた訳ではないですけれど、ただ自分の行動によって人に目を向けてもらい楽しんでもらえる喜びを、そういった自分の行動を大切に、将来の自分が何よりも信じて向き合っていられるものであり続ければ素敵だなって、その頃から何となくですけど意識していたのは間違いないですね。
それで、音楽系の中学があるのなら受験してみようと思い立って、国立音楽大学の附属中学へ進学したんです。大学の付属中学なので高校へはそのまま進学する形でした。まずそこが1つの大きなターニングポイントですね。
― ネロ 全校集会時の演奏とはいえ単なる伴奏ではなくて、音楽室で弾く上でもその時の演奏に実力が伴って、皆を惹きつける物であったからこそ反響が大きかったんでしょうね。
菊池:当時の周りの反響が一つのきっかけとなったのは間違いないですね。それと、僕の少し上の時代だと、男性がピアノだなんて、みたいな風潮もあったみたいですけど、僕らの時はそれが面白がられる世代に変わっていたのかもしれません。
― ネロ それでも小学生の頃に自分は音楽を選考する、という決断をされたわけですよね、多くの反響があったからとはいえ、特に誰かの助言があったわけでもなく自分で決断した、何か革新めいたものがその頃からあったのでしょうか。
菊池:いえいえ、そんなに深く考えていた訳ではないんですよ、子供ながらにちやほやされて、こりゃいいやって思っただけなんです。その時はね。ただピアノを弾いていると心地良くて、自分の居場所を見つける事は出来ていたのかもしれません。
それでも中学から状況は一変するんです。音楽学校なので当然のようにみんながピアノを弾ける訳ですね。それからは自分のアイデンティティがどこにあるのか見失いかけて、凄く悩んだ時期もありました。というのも、もうこれは性格なんでしょうけど、先生の言うことを聞いて教わる通りにしっかりやる、みたいなことが僕できないんですよ、反発しちゃって。笑 でもその反面、その頃から自分の演奏を、どうやったら多くの人に届けられるのかって事を常に考えていました。自分が考えるピアノ奏者とはどうあるべきか、みたいな事を模索し散々考えて、そうこうしているうちに、いつしか本格的にプロになりたいって思い始めてました。
― ネロ 自身の演奏で楽しんでもらいたい、その想いは今も本当に強く伝わります。常にお客さんに目を向けられてますよね、如何に自分の演奏で喜んでもらえるか、聴く人が何を求めているのかを。その気持ちが強いからこそプロとしてのイメージがより鮮明になっていったのでしょうか。
菊池:確かにそれはあったのかもしれません。あと僕の父はサラリーマンですけれど、毎日スーツを着て出勤している姿をいつも見ていて、とても立派ではあるけれど、将来の自分を照らし合わせるとどうしてもそんな自分がイメージできなかった。どこか自分は違うんだろうなって、幼少期から何となく気づいていたんだと思います。そういった想いもいつしかリンクして、大人に近づくに連れて確信に変わっていきました。ピアノを生業に食べていけたら最高だなって。
でもピアノを除けば僕自身、極々普通の男の子だったんですよ。小学生の時は友達と秘密基地を作って、虫取りに行ったり、あとはポケモンにはまっていましたね。そうそう、僕、幼少期に二度ほど引っ越しているんですね。生まれは埼玉なんですけど、4歳の頃に秋田へ、それから小4の頃に東京の方に。でも思い返してみても場所は変われど、友達といろんな野山を走り回っていましたね。自転車でいった事のない遠方までチャレンジしてみたり。あとは、そうそう、とある公園の木々に、自分達でその辺に落ちている木の枝や針金やらでデコレーションして、そこでゲームボーイを持ち合って対戦するんです。
ポケモンバトルです。通信ケーブルと言うものがありまして、それでみんなで対戦するんです。そしてその勝者が一番偉い、みんながそんな価値観で、ごく普通の男の子だったんですよ。
― 黎子 うーん、今のお話を聞く限り、普通と言うよりは少々やんちゃ寄りの男の子だったような気が…笑 でもそういう一面もあったわけですね。
菊池:え、そうですか? そうかな、そんな事はないと思います。笑 それでも、僕の場合はピアノしかなかったのかもしれないですね。なんだろう、おそらく根幹の部分がシンプルというか。自分に限らずみんなが幼いながらも自分特有の武器を探していたんだと思います。ポケモンの対戦もそうでしたけど、言葉には出さないにしてもどこか自分はこれなんだ、という物を見つける事自体も一種の競争みたいな。そんな状況下、僕の場合はピアノであって、ピアノと向き合うことが唯一、自分でも納得のいく道でした。
― ネロ 小学生にして信頼できる武器を見つける事ができた…
菊池:ええ。例えば小中学生は足が速いから凄い、勉強が出来るから凄いとかってありますよね、新しい遊びを思いついた人が凄いとか。でもそんな中にあって、ピアノを弾くっていう選択肢が自分にはあった。もちろん結果論ですけど、その時その周りでその方法を選択できたのは僕ぐらいだったでしょうし、そういった背景も一つの要因だったとは思います。ピアノを弾けることで色んな人に褒められて、なんか自分、他の人にない武器を手に入れたのかな、っていう自覚がいつしか芽生えて。なので、将来の事をその頃からきちんと見据えて自分の道を決めていた感じではなくて、その当時の環境や境遇、いろんなものが重なったんでしょう、そして自分の場合は勉強もスポーツもできない、でも音楽なら出来る、自分には音楽があるって。
想えばそれまでは唯々ピアノを弾く事が楽しくて、周りの人に凄いと思ってもらえる充実感もあって。ただ、より深く音楽と向き合おうとすればするほど、時として厳しい物でもあるんです。そういう意味での転機でいうと、そうですね、僕は中学から音楽系の学校に進みましたけど、周りの状況は一変するわけですね。その環境下ではピアノは弾けて当たり前で、皆が先生の言うことをしっかり聞いて、同じように練習してコンクールを受ける。そんな中、いつしか自分のアイデンティティはどこにいったんだろうと考えだして。でも弾けるのが当然なら、じゃあ周りのみんなが絶対にやらない演奏方法みたいなものをあみ出せばいい、そんな発想というか価値観はもっていましたね。その時々で周りや自分に打ち勝つ何かを常に探していたと思います。
― ネロ そういった状況下でその切迫感を危機感と捉えて、さらにはその環境下の中でアイデンティティの獲得を模索する、中学生ですよね、おそらく大体はピアノが上手くなるよう練習を続ける事で精一杯でしょうし、そのような発想に至ることが驚きです。
菊池:いえいえ、そんなにストイックな思考であったわけでもなくて、僕自身、人一倍負けん気が強いわけでもないんです。なんでしょうね、まあ感じたことに素直に、まだ幼いながらも自分を信じていた、という部分はあったのかもしれません。ただ一方で周りの人の度肝を抜いてやろう、みたいな想いありましたね。結局はそれも聴いてもらう人達がいてなんぼ、ですけどね。
― ネロ 反骨心や負けん気な要素が強かった、というよりは、自分の演奏で驚かせたい、とか少し飛躍すると何かを与えたい、気付かせたい、と言った心境でしょうか。
「たくさんの誰かに向けて」
菊池:本当にそうで、負けん気だったり周りの人に勝ちたい、という感情は本当になかったんです。勝ち負けで言うのなら、学校で実技試験があるんですよね、その成績ではっきりしてしまう。正直そこにはあまり興味がなくて、誰かと競うというよりは自分自身でその時々で納得のいくよう突き詰める事を優先していたんだと思います。
先ほどの言葉をお借りするのであれば反骨心でしょうね。反骨心といっても自分に打ち勝つ、という意味合いです。例えば学校の試験では僕の場合、結構ムラがありました。良い時もあればそうでない時もありました。でもその理由を深く考える事はせずに、良くなかった時は、“今回の演奏は先生には分からなったんだ”、と言うように何かしら結論付けて。今だったら何が良くなかったんだろうって分析するのが当然なんですけどね。大人になった今だからこそそれが自分の成長に繋がるという事を自覚してますけど、その頃はそうではなかった。何かのせいと自分なりに解釈してしまい、自分は可哀そうなくらいに思ったりして。まあそれはそれでね、そういった太いメンタルは今でも少しだけでも持ち続けられていれれば良かったんですけど。笑
― ネロ 学校の試験っていうのは実演が大半だったのでしょうか。
菊池:殆どが実演ですね。並べられた机に試験官である先生が座り聴く形式です。一人ずつクローズドな環境で、他の生徒には見えません。実演とはいえ先生に向けて弾いていた、という感じです。
- ネロ なるほど、そう考えると尚の事、試験の結果が全てではないと考えますよね。学校という環境で音楽を学びながらも、良くも悪くも属人的な評価に振り回される事なく、大切な事が他にもないか、どこか懐疑的に、より広い視野をもつ事を意識されていた。
菊池:そうですね。まあ極端な例ですけど、政治家の人達が要所でどういった話し合いをしているかなんて分らないじゃないですか。だからこそ何か別の方法で認めてもらう事とか、他からは見えにくい所で何かを獲得しようと頑張る人もいるわけで。ある種そういった社会の縮図みたいな事だったのかもしれません。
そういう背景も相まって色んな事に気付き感じていく中で、自分は他の人とはどこか違う、異端児になろうとしていたのだと思います。それと合わせて周りからの見られ方も、あいつは凄いって思われた方が、まあいいじゃないですか。唯々落ちこぼれているよりかはね。そのような気持ちからあえて道を外れようと、そう勤めていた時期もありました。
― ネロ 中学生でどうすればそこまでの思考に到達するのでしょう、大抵は自分が置かれた環境下の中で結果をだす事に精一杯で、学校だってそのように促すでしょうし。仮に親から好きな道に進みなさいと諭されたところで、じゃあいったいそれが何なのか、その時期に答えを出すなんて現実的ではないですよね。
菊池:それが、まだ子供だったからこそう考えたのかもしれません。自分は何者なんだろうって、答えが分からないからこそ探しに行くみたいな。そしてその答えが一番はっきりするタイミングは、やっぱり人から凄いと言われる時なんですよね、そこは本当に単純です。数字が全てである学校の成績よりも、演奏した時の周りからの手ごたえ、もう昔からそれなんです。純粋にその一点を追い求めていると自ずと熱意が生まれる。そう、熱意は昔から人一倍強いのかもしれません。
― ネロ その時は中高生ですよね、本来の目標から逸れて、多少なり別のものに興味が移る事はなかったのでしょうか。同級生と遊んだり。
菊池:それが僕はなかったんですよ。まあ同級生とは多少は遊んだりしましたけど、当時はピアノを弾く事しか本当に考えていませんでした。まあその、練習をするという感覚ではなくて、とにかく毎日ピアノを弾く、という行動がいつしか自分の当たり前になって。それを何かで置き換えるという発想自体がなかったですね。
― ネロ 大半は家で弾く事が多かったのでしょうか。
菊池:家に帰ってからも弾くんですけど、学校の音楽室では大きい音をせるので、学校でもよく弾いていました、放課後とかに。そうそう、学校ではとにかく大きい音を出して、他の教室から苦情がきたら自分の勝ち、なんて良くわからないチャレンジをしてみたり。笑
― ネロ 笑 そもそもピアノは、単純にタッチが強ければ大きい音が出るという解釈であってます?
菊池:実はですね、力よりもスピードなんですよ。
― ネロ それは知らなかった…
菊池:そうなんです。まあもう少し詳細にお話すると、それにプラスして自分の体重の乗せ方だったり幾つか要因はあるんですけどね。ただ当時はそこまで考えが及んでいなくて、唯々力で、別に脱力できてようができてなかろうが気にしていませんでした。それである時、同級生からピアノの音が大きすぎるって先生がめっちゃ怒ってたよって話をきいて、よし、俺の勝ちだ!と勝ち誇ってました。笑
そうそう、先ほどの、友達と遊んでなかったかというご質問ですけど、例えばみんなで遊園地に行ったりパーティーしたり、そんな感じではなかったんですけど、高校ではバンドを組んでました。違うクラスの同級生とバンドを組んで練習はしていて。そういう意味では友達と過ごす時間も多かったですね。一緒に音を出して、ご飯食べてゲーセンに寄って帰る、というような。純粋に楽しかったし、音楽の幅を広げるためでもあったし。バンドの各パートって大抵は電気を通して音を出すじゃないですか、ギターにしてもベースにしてもね。でも通っていた学校が音楽学校なんで、校内でライブする時はグランドピアノがあるわけです。なので僕はあえてマイクを立てなくて、逆に自分の音は生音で大きいからギターやベースには気にせず音量を上げてもいいって、得意げに言ってましたね。
― ネロ 本来、グランドピアノでしたらアンプラグで問題ないものなのでしょうか、それは菊池さんだからこそアンプラグで問題なかった、という事? 会場の形状にもよるでしょうけど。
菊池:はい。そのとおりでボーカルもサックスもいるわけですけど、周りのパートが全てマイクを立てるわけで、普通に考えるとピアノもマイクを立てるべき。ピアノだけ生音で張り合うなんて無茶なんですけどね、なぜかそこは当時の自分の拘りで、生音でいこうって。それでいてPAの方に自分の音だけ小さいなんて意見したり。
― ネロ それはPAさん困りますよね、マイク立ててないので音量を上げようがない。笑
菊池:ええ、もう今考えると本当に申し訳なかったっていう。
― ネロ いまライブのお話が出ましたので、少しだけ現在の菊池さんに立ち返っていただいてお伺いすると、YouTubeでライブ配信される際に弾かれているグランドピアノ、あちらはご自宅で、やっぱり演奏時に音量的には多少セーブされているのでしょうか。お答えいただける範囲で。
菊池:いえいえ、全然大丈夫です。自宅と実家のどちらかですね。
― ネロ そうなんですね、特別なスタジオを用意されているわけではなくて。
菊池:はい。ライブ配信においては自分の練習環境と全く同じ場所です。一応、 防音室なんで大きな音は出せますね、ある程度の音量は許容されていて。
― ネロ そうすると、ライブ配信の時はラインで音出しされるよりも、実際は生音を拾って、という事なのでしょうか。
菊池:もちろん実際に音も鳴ってますし、ラインでも。両方ですね。まあ要となるのはピアノ用のマイクを何本か置いていて、それかな。ピアノの弦の近くと、あとはエアーというか空間で2本程立てています。実は僕の弟が音響周りに詳しくて。
― ネロ 程よくリバーブがのっていてとても音質が聴きやすくて、どんなセットアップなのか気になっていました。でも、そもそもライブで無料で聴けてしまう事自体、とても贅沢だなって。弟さんのサポートがある訳なんですね。
菊池:そういっていただけると嬉しいです。音響に関しては本当に弟に感謝ですね、もう僕より優秀なんで。
「音楽活動の原体験」
― ネロ バンドのお話が出ましたのでお伺いしますけど、現在もバンドでも活動もされている訳で、プラグインの楽器隊と合わせる事も経験されてきて、ご自身の中での位置づけといいますか、ピアニストとしてソロでのご活動とバンドとでは何か区別されている部分はあるのでしょうか。
菊池:それは本当に、位置づけ、という点では今だに自分の中でも明確な答えは出せていないんです。もちろんどうあるべきか、その答えを探してはいますけどね、自分の収まりがいい形を。でも最近になって、いざソロでやろうとかバンドでやろうとか、結論づける事自体どうなのかなって。
僕の音楽活動の原体験となっているのは、高校時代です。文化祭の後夜祭っていうのがあるんですね、文化祭の最後に何グループも体育館で演奏するんですけど、そこで友達とバンドでステージに上がって。その時がめちゃくちゃ盛り上がって気持ちよくて。なんでしょう、結局そういった体験が印象深くて、やっぱり聴いてくれるお客さんがいて、一緒にそういった空間を作り上げる事が自分は好きなんでしょうね。そのためのスタイルって何かに固執する必要はないのかなって、最近ではそう思います。
― ネロ これまでの菊池さんの活動が物語っていますよね、お一人での公演や配信をはじめ、オーケストラとの共演、同じピアニストの方とのセッションや他たくさんのアーティストとのコラボレーション、全世界を行き交って場所を問わないライブ、とにかく境界がなくて何かに捉われない活動スタイルは菊池さんの一つの魅力なんだと思います。
菊池:ありがとうございます。そうですか、そう写っているのでしたら嬉しいです。もちろん僕はクラシックがベースにありますけど、やっぱりクラシックでの演奏会は静かに聴くものなので、終始、わあ!って盛り上がるわけでもない。一方バンドでのライブとなるとね、なので学園祭で最初にそれを体感した時は衝撃的ではありましたね。
― ネロ 確かに違う物でしょうし、その両方の醍醐味を知る上でそれぞれの良さがある訳で、どちらが良いと決めつけられるものでもないですよね。
菊池:そうなんですよ、そういった過程を経て、まあバンドマンになりたいっていう気持ちも芽生えるわけで、でも自分のクラシックのベーシックな部分っていうのも失いたくなくて、その部分の勉強も疎かにはしたくなかったんです。
「厳しくもあるピアノ」
― 黎子 時に厳しい物でもあるピアノ、という点でエピソードをお伺いしてもよろしいでしょうか。
菊池:そうですね、高校時代です。縁があって、普段学校で教わる先生ではない先生のレッスンを受けさせてもらったんですね。そしてその先生に基本がなっていないと言われて。自信満々だった僕には衝撃でしたね、何かがポッキリ折れて。それからです、それまでの練習スタイルを全て見直して、大学受験までの間、 特に1年数か月ぐらいは徹底的にやりました。
― ネロ 即ち、それって基本からやり直す必要があるって事を当時受け入れる事が出来たってことですよね、基本がなっていないって事をご自身で認めて。やはり単に言われたからだけではなく、ご自分で納得する部分があったんでしょうか。
菊池:その時は受け入れられましたね。本当にその通りで、あ!本当だわーって自分で腑に落ちて。
― ネロ 納得できたわけですね。
菊池:そうなんです。 あの、最初はもっと反発するかと思ってたんですよ自分でも。なんですけど、やっぱり先生が弾いたら全然違うんですよね。おそらくピアニストでない方でもわかるようなはっきりとした違いです。あー、そうだよね、今の自分はそうではないねと深く納得できて。そうなると、やはりできるようになりたいっていう気持ちが強くなって、それと小中学生の自分からは幾ばくか成長して、考え方が少し大人になった事もあったと思います。その事をきっかけに、それからの練習は頑張りました。高校生ぐらいの一年間って、今思うととても長く感じるじゃないですか、それでもその時はとにかく練習に打ち込みましたね。その傍ら高校卒業後の進路を決める時期でもあったので、その時は色んなものが圧し掛かって鍛錬な時期ではありましたね。
進路については普通に音大を受ける、っていう選択肢も当然ありました。センター試験の受験が必要な大学もあって。それでですね、僕、センター試験の願書の提出に遅れてしまったんです。当時の担任の先生が凄くこう、しっかりきっちりされてる方で、ちょっとだけ遅れちゃったんですよ、願書を出すの。どうにかなりませんかって頼んだんですけどダメの一点張りで。笑 そうなると自ずと受験できる学校は絞られてくる、まあそれが今思うと結果的に良かった部分もあったんですけどね。
― ネロ そうだったんですね、センター試験となると国立系、東京藝大でしょうか。
菊池:東京音大とかですね。まぁ、いろんな学校を視野には入れてました。最終的にいくつかの学校に絞って。音大を受ける事は決めていてずっとそのつもりでした。それが高3の冬ぐらいだったと思います。冬期講習に行った際に日本大学芸学部の存在を知って、教えてる先生もとても素晴らしいし興味をもちました。一度行ってみようかなって思って。それで僕の師匠となる神野明(じんのあきら)先生と出会いました。まあ、もう亡くなってしまったんですよ。
日大を訪問した際に神野先生にレッスンをしていただいたんですね。当時の教授だったんです。その時でした、あのね、君はうちを受験しなよ、と言ってくださった。もし受かったら僕が面倒見るからと。この事は今初めて公に話したかもしれません。
――― 次回へ続く
Kikuchi Ryota - information -
YouTube