新国立劇場 ―
日本のオペラ芸術、その最前線、世界水準の舞台芸術を東京240年を生き続けるモーツァルト。そして20年以上磨かれてきた、新国立劇場の『フィガロの結婚』

オペラという芸術を語るとき、作品そのものと同じくらい重要なのが、それを上演し続ける「劇場」という存在なのかもしれない。楽譜に記された音楽は変わらない。しかし、そこに立つ歌手が変わり、指揮者が変わり、時代が変われば、舞台から立ち上がる人間の姿もまた変わっていく。優れたプロダクションは、一度生まれて終わるものではない。上演を重ねるたびに新たな歌手、新たな音楽と出会いながら、その劇場に蓄積されたひとつの文化として育っていく。
新国立劇場の『フィガロの結婚』は、そうした劇場文化の蓄積を象徴する舞台である。
2026年12月、モーツァルトの傑作『フィガロの結婚』が、新国立劇場オペラパレスに帰ってくる。今回上演されるのは、アンドレアス・ホモキ演出による、新国立劇場を代表するプロダクションのひとつ。その歴史は、今から23年前に遡る。
新国立劇場が20年以上育ててきた『フィガロの結婚』
ホモキ演出の『フィガロの結婚』が誕生したのは2003年。当時の新国立劇場オペラ芸術監督、トーマス・ノヴォラツスキーの就任第1作としてプレミエを迎え、新たな時代の幕開けを告げるものとして衝撃をもって迎えられた。2005年、2007年と再演を重ね、その後も新国立劇場のレパートリーとして上演され多くの観客を魅了してきたこの舞台を、劇場自身が現在「看板演目のひとつ」と位置づけている。
つまり『フィガロの結婚』は、240年前に生まれたモーツァルトの傑作であると同時に、新国立劇場が20年以上にわたり磨き続けてきた舞台でもある。
「段ボール・フィガロ」が描き出すもの
ホモキ版『フィガロの結婚』を象徴するのが、その独特な舞台だ。華麗な宮殿を写実的に再現するのではなく、無造作に積み上げられた無数の段ボール箱。しかし、その段ボールは単に奇抜な舞台美術として置かれているわけではない。時代を超え、何かが起こるぞという期待を観客に与え、観客を共犯者にしていく仕掛けでもある。そして、最初は四角く整然と囲まれていた舞台が、物語の進行とともに傾き、壊れていく。床までもが傾き始める。そこに託されているのは、「階級社会の崩壊」という演出上のコンセプトだ。
衣裳にも同様の変化が起きる。舞台と同様にモノトーンでスタイリッシュながら、物語の始まりでは、伯爵や伯爵夫人は社会的地位を象徴する装飾的な衣裳をまとい、フィガロやスザンナとは明確に異なる姿で登場する。しかし、幕が進むにつれてその差異は少しずつ取り払われていく。最後には、身分を示していた衣裳も、かつらも失われる。伯爵であることも、召使いであることも関係ない。そこに残されるのは、一人の人間だ。
ホモキがこの作品から浮かび上がらせるのは、18 世紀の貴族社会ではなく、社会的な地位や因習の奥に存在する、人間そのものの姿なのである。それこそが、このプロダクションが初演から 20 年以上を経てもなお古びず、新国立劇場のレパートリーとして生き続けている理由のひとつなのだろう。
1786年から変わらない、人間の可笑しさ
『フィガロの結婚』がウィーンのブルク劇場で初演されたのは1786年。原作はフランスの劇作家ボーマルシェによる戯曲。ロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書き、モーツァルトが音楽を作曲した。物語の中心にいるのは、アルマヴィーヴァ伯爵に仕えるフィガロと、伯爵夫人の侍女スザンナ。二人はまさにその日、結婚しようとしている。ところが、スザンナに目をつけた伯爵の存在によって、結婚を目前にした二人の一日は思わぬ方向へ転がり始める。夫の心変わりに傷つく伯爵夫人。恋に恋する若きケルビーノ。そして、それぞれの思惑を抱えた人々。恋、嫉妬、欲望、策略、勘違い。さまざまな感情が絡み合い、たった一日の出来事が大きな騒動へと膨らんでいく。けれども、『フィガロの結婚』の本当の面白さは、「フィガロとスザンナは無事に結婚できるのか」という筋書きだけにあるわけではない。
伯爵と召使い。男と女。夫と妻。権力を持つ者と、持たない者。欲望する者と、それに抗う者。
そこには、人間と人間の間に生まれるさまざまな力関係が描かれている。そしてモーツァルトは、それを決して重苦しい社会劇だけにはしなかった。むしろ、驚くほど軽やかで、美しく、ときに可笑しい音楽へと変えていった。
人間の感情が、音楽の中で同時に動き出す
『フィガロの結婚』には、軽快な序曲をはじめ、「恋とはどんなものかしら」「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」「愛の神様、手をさしのべてください」「楽しい思い出はどこへ」など、今日では単独でも親しまれている名曲が並ぶ。しかし、この作品の凄みはアリアだけではない。むしろ圧倒されるのは、登場人物が増えるほど音楽が複雑に、そして生き生きと動き始めるアンサンブルだ。
フィガロが考える。スザンナがそれを見抜く。伯爵が疑う。伯爵夫人はまた別の感情を抱く。
一人ひとりが違うことを考え、ときには互いに騙し合いながら、それぞれの感情が同時に歌われ、一つの音楽へと組み上げられていく。言葉では衝突している人間たちが、モーツァルトの音楽の中では驚くほど緻密なひとつの構造になる。オペラが「音楽による演劇」であることを、これほど鮮烈に体験できる作品は多くない。
2026年、阪哲朗と日本人キャストで挑む『フィガロ』
そして今回の公演には、もうひとつ大きな特徴がある。指揮者、キャストともに日本人で『フィガロの結婚』を作り上げることだ。指揮台に立つのは、阪哲朗。京都市立芸術大学で作曲を学んだ後に渡欧し、ウィーン国立音楽大学在学中からヨーロッパの歌劇場でキャリアを積み重ねてきた。ビール市立歌劇場、ブランデンブルク歌劇場、コーミッシェ・オーパーを経て、アイゼナハ歌劇場、レーゲンスブルク歌劇場では音楽総監督を歴任。ウィーン・フォルクスオーパー、バーゼル歌劇場、シュトゥットガルト歌劇場をはじめ、ドイツ、オーストリアなど数多くのオーケストラ、歌劇場に招かれてきた、日本を代表するオペラ指揮者の一人だ。
つまり今回、単に日本人指揮者がモーツァルトを振るということではない。長年にわたりヨーロッパの歌劇場文化の中でオペラと向き合ってきた音楽家が、日本の歌手たちとともに、新国立劇場が長く育ててきた『フィガロの結婚』を作る。そこに今回の公演ならではの面白さがある。
さらに阪は今回、オーケストラの指揮に加えて、レチタティーヴォの伴奏チェンバロを自ら演奏する。レチタティーヴォは、登場人物同士の会話を音楽として進めながら、物語を前へ動かしていく重要な部分。その伴奏を指揮者自身が担うことで、歌手の呼吸や台詞、演技の「間」と音楽がより直接的につながっていく。新国立劇場も今回、この試みを「舞台とオーケストラの更なる融合」を図るものとしている。
人と人との会話から次の音楽が生まれ、そのままアンサンブルへ流れ込んでいく『フィガロの結婚』だからこそ、阪がチェンバロからドラマそのものに参加することが、舞台にどのような躍動感をもたらすのか。今回の大きな注目点となりそうだ。
新国立劇場に集う歌役者たち
タイトルロールのフィガロを歌うのは、バス・バリトンの木村善明。
2007年に渡独し、ドイツ、フランス、ベルギーで研鑽。2011年にはドイツで『フィガロの結婚』のタイトルロールに抜擢されヨーロッパデビューを果たした。2014年にはマンハイム歌劇場でもフィガロを歌い、その後ビーレフェルト歌劇場の専属歌手として活躍。ヨーロッパでの舞台歴は600回を超える。その木村が、今回、新国立劇場に初登場する。
アルマヴィーヴァ伯爵には須藤慎吾。伯爵夫人には吉田珠代。スザンナには九嶋香奈枝。ケルビーノには山下裕賀。
さらにマルチェッリーナに中島郁子、バルトロに妻屋秀和、バジリオに青地英幸、ドン・クルツィオに水野優、アントーニオに晴雅彦、バルバリーナに七澤結。
合唱を新国立劇場合唱団、管弦楽を東京フィルハーモニー交響楽団が担う。
新国立劇場が今回のラインアップ発表で「演技も巧みな歌役者たち」と表現していることにも注目したい。『フィガロの結婚』は、一人のスターだけで成立する作品ではない。相手の言葉を受け、表情が変わり、誰かが嘘をつけば別の誰かが疑い、さらに別の人物がそこへ入り込んでくる。その連鎖そのものがドラマになる。
人物同士の関係と身体の動きを徹底して舞台化するホモキの演出だからこそ、それぞれの歌唱力に加え、「歌役者」としてのアンサンブルにも期待が高まる。
新国立劇場で、オペラを観るということ
FORTIS.TOKYO ではこれまで、新国立劇場から生まれるさまざまな舞台を紹介してきた。そこから見えてくるのは、新しい作品を世に送り出すことだけが劇場の役割ではないということだ。
ひとつの舞台を作る。再び上演する。そこへ違う指揮者、違う歌手が入り、新たな解釈と表現が加わる。そして、その舞台を次の時代へ受け渡していく。同じプロダクションであっても、そこで生まれるものは決して同じではない。
その積み重ねが、新国立劇場の歴史となり、受け継がれてゆく。
2003年に新制作されたホモキ版『フィガロの結婚』が、23年後の2026年にもなお新国立劇場の「看板演目」として上演されることは、そのひとつの証明でもある。
そして最後に残る「赦し」
『フィガロの結婚』の終幕。
それまで自らの立場と欲望によって周囲を振り回してきた伯爵が、伯爵夫人の前で赦しを求める。夫人は、それを受け入れる。長い一日の騒動は、そこでようやく終わりを迎える。
喜劇でありながら、その瞬間に流れる音楽には、単なるハッピーエンドでは片付けられない美しさがある。
人は間違える。愛していても傷つける。立場や力を持てば、その力を誤って使うこともある。それでも最後に、人は誰かを赦すことができるのか。
1786年にモーツァルトとダ・ポンテが舞台に置いた人間の姿は、240年後を生きる私たちと、決して遠いものではない。だから『フィガロの結婚』は古典であっても、過去の作品にはならない。そして、その作品を20年以上にわたり育て続けてきた新国立劇場の舞台もまた、再演されるたびに新しい「現在」を獲得していく。
2026年12月。
アンドレアス・ホモキが構築した新国立劇場の『フィガロの結婚』に、阪哲朗と日本の歌手たちが新たな時間を刻む。240年を生き続けるモーツァルトの音楽。そして23年にわたり受け継がれてきた、新国立劇場の舞台。
その二つの時間が、オペラパレスで再び交わる。
【 フィガロの結婚 】 ― 新国立劇場 ― 2026/2027 シーズン オペラ







