FORTIS.TOKYO in-depth interview / 光田 康典(Yasunori Mitsuda)ChapterⅠ

光田 康典(Yasunori Mitsuda)

コンポーザー、アレンジャー、音楽プロデューサー。
プロキオン・スタジオ 代表。

※ 代表作として『クロノ・トリガー』、『クロノ・クロス』、『ゼノギアス』、『ゼノブレイド』シリーズ、アニメ『ダンジョン飯』など。


誰の記憶にも、一度や二度は、映画や音楽、あるいはゲームの世界に心を救われたり、背中を押された瞬間があると思う。時を超えて寄り添い、名もなき感情をすくい上げる、そんな誰かにとって「かけがえのない楽曲」を生み出す作曲家、光田康典 氏。人の心に、時には優しく、時には諭すように語りかけるその旋律は、いかにして生み出されるのか。そこにあるのは特別な手法や理屈ではない。あるのは、光田氏自身の歩んできた物語と、他者へ向けた真摯なまなざし、そして惜しみない愛情であった。


光田:今日は何でも聞いてください(笑) フォルティスさん、とても興味深いメディアで、凄く楽しみにしていました。

― ネロ こちらこそ、そもそも光田さんにお声がけさせていただいたのは、とにかく僕が光田さんの作品にいつも感動させられていて、お会いしてお話をお伺いしたい事が一番の理由でしたので、今日はお時間をいただけて本当に光栄です。

光田:ありがとうございます。ゲーム業界では僕の名前を知っていただいている方も多くいるとは思いますが、音楽業界全体で見ると、僕のことをまだご存じない方も多いと思います。ですのでこのような機会はとても嬉しいです。

― ネロ 僕自身、光田さんの作品に最初に触れたのは固有のゲームタイトルになりますけど、楽曲の圧倒的な世界観と説得力に衝撃をうけて、直ぐに光田さんのこれまでの作品を調べさせていただいて聞き入りました。

/ 幼少期からゲームや音楽に没頭する少年時代だったのでしょうか /

光田:それがそうではなくて(笑) かなりアウトドア派でして、ずっと外に出て遊んでばかりでしたね。とにかく自然が大好きでした。雨が降っていても雷が鳴っていても、とにかく外で遊ぶ。そんな子供時代で、遊びに出ると家に帰ってくる頃には必ず身体のどこかに一つは怪我をして帰ってくるという、とにかく“やんちゃ”な子でした。当時はゲーム機やスマートフォンもありませんでしたので、大抵の子達はTVを観るか、外で遊ぶしかありませんでした。他の友達はTVや当時流行っていた超合金といったおもちゃで遊ぶことがありましたが、僕はそうしたものにも全く興味がありませんでした。とにかく朝、家を出ていったら夜まで帰ってこない。母親は、この子は大人になるまで無事に育ってくれるのか、いつも気が気ではなかったようですね。そんな幼少期でしたので音楽の“お”の字もない生活をしていました。まさか大人になって今の仕事に就くなんて夢にも思っていませんでしたね。

― ネロ 当時は大人になってどのような仕事に就きたいと思われていたのでしょう。今のお話からアクティブな体を動かす仕事、野球選手やサッカー選手でしょうか。

光田:そうですね、スポ―ツは得意な方だったので、将来はスポーツ選手になりたいと思っていました。僕は山口県出身なんですけど、当時は野球、剣道、柔道、水泳、卓球、バスケットボールぐらいが主流のスポーツで、いま人気のサッカーなど都会のスポーツという認識がありました。まだJリーグもありませんでしたので・・・そんな時代です。自分は野球が得意だったので野球の選手になりたいとは思っていました。運動神経は良かったので、周りからも将来スポーツ選手になるのでは?と思われていたみたいです。

野球は中学の途中までやっていたんですけど、中学一年生の終わり頃、父が大きな怪我をしてしまいまして。長い間、母が入院した父の看病で家を空けることが多く、姉と二人で生活をしていた時期もありました。家事が忙しくなり、部活の練習を休む事が多く、それが原因で結構ないじめに遭いました。そこまでされて野球を続ける気にはならなかったので監督と話しあって結局野球部を辞める事になりました。もしその出来事がなければ野球の選手の道もあったのかもしれません。でもそれは自分の運命だと受け入れるようにしています。その後は、当時の家の状況でも迷惑が掛からない範囲で参加できた、軟式テニス部へ移りました。

― ネロ 当時はご家庭のご事情とはいえ、凄く悩まれたのではないでしょうか。

光田:それは悩みました。仕方がない事とはいえ、やはりいじめは辛かったですね。理由はなんにしろ、練習にも来ない、でも試合になったらレギュラーで出場・・・そういう状況にチームのメンバーは良くは思わなかったでしょうね。

高校生になると状況は変わります。運動神経は良くても、浅く広くでは通用しなくなってくる。他の方は何か一つの競技に絞って、その一つの競技に対して真摯に向き合ってとことん学ぶ訳です。専門的にやっている人たちに少しずつ敵わなくなってくるわけです。それまで自分にはスポーツがある、みたいな自負がどこかにあったんですけど、小さい頃からきちんと向き合わないといけないんだって気付いて自分の中で一気にスポーツ離れが加速しました。

そして次に興味を持ったのが映画だったんです。高校生の時に凄くはまってまして、学校が終わるとレンタルビデオ店に駆け込んではその日見る映画を決める、それが日課となりました。今考えてもそれが将来の自分に繋がっていくとは思いもしませんでした。毎日毎日漁るように映画を見続けました。そしてふと思ったんです。映画の中の音楽や効果音は観ている人の感情を揺さぶる事が出来る凄く面白いものだなって。

― ネロ その時にはれて光田さんの中で音楽が特別なものとなった。

光田:そのとおりです。スポーツ少年ではありましたが、姉の影響で、5歳ごろから小学校高学年までピアノを習っていました。もちろん、その時は音楽には全く興味がありませんでしたが・・・。そんな事もあって、高校時代は友達からバンドに誘われたりしたこともありましたが、なぜかバンドというスタイルに心を惹かれなくて。80年代や90年代は映像音楽が盛んだったこともあり、サウンドトラックの方に興味がありました。また当時、アニメの映画で「AKIRA」という作品があり、凄く衝撃をうけましてアニメーターになりたいと思って絵を描いていた時期もありました。単純ですよね。(笑)

でも、絵に関しては、僕の父親が絵描だったので、なんとなく父と同じ道は避けたいと思っていました。余談ですが、昔の映画の看板って手描きだったわけですが、そうした映画の看板を描いたり、日展で賞をとっていたらしいです。ということでやっぱり自分は音楽にしようと。それが高校二年生の終わりごろでした。それからはすぐにバイトを始め、音楽機材を買ってコンピューターで曲を書いては色々なコンテストに応募をしていました。ですので今の仕事に繋がる明確な行動をとり始めたのは高校二年生の終わりごろだと思います。それまでは音楽の仕事に就こうなんて思った事もなかったですね。

自分の性格的に何か思い立ったらすぐにやらないと気が済まないたちでして、昔から後先考えずにすぐに行動してしまうほど“せっかち”な性格でした。今もそれは変わっていませんが・・・(笑) 

― ネロ それでも音楽だけは何かが違ったんですよね。

光田:ええ、きっとそうだと思います。音楽について何も知らなかったからこそ、そこに面白みを感じたんだと思います。また、やればやっただけ、音として自分の実力が返ってくるというところにも魅力を感じていたのは確かです。両親は飽きっぽい自分の性格をよく分かっていたので、買ってきた機材などもいつゴミになるんだろう、と思っていたらしいです。それが予想に反して一向にその気配もなく、むしろ日毎に機材は増えていくみたいな。(笑) そして、高校卒業後は音楽の道に進みたい、と伝えた時は相当驚いたみたいです。もちろんこの時、自分の中では音楽だけはずっと続けられそうという思いがあり、音楽は自分にとって欠かせないものになっていました。

― ネロ 続けられるものとの出会い、光田さんの中で将来ずっと向き合う事の出来る何か、それを妥協なく自分に正直に探していた、だからこそ見つけられた、出会えたのではないでしょうか。

光田:そうですね、先ほども話しましたが、楽曲制作ってレスポンスが速いんですよ。例えば、8小節でも打ち込めば“自分の音”と言う形になって返ってくるわけです。その音楽との会話が楽しかったのかもしれません。例えばピアノであれば長い時間、練習を続けて少しずつ弾けるようになっていく。もちろんピアノに限らず楽器は須らくそうでしょう。でも僕の性格柄それよりも直ぐに自分の中にあるものを形にしたい、結果を知りたい。どうしてもそう思ってしまうわけです。作曲とはそういう事なのかもしれませんし、そこが何よりも楽しいのです。

― ネロ 当時も制作された楽曲はコンテストなどで反響が大きかったのではないでしょうか。

光田:いえいえ、それが全くでしたね。(笑) おそらく審査側も“もう話にならん”、そんな感じだったと思いますよ。コンテストによっては、その開催分の入賞者の作品、5名くらいの作品を後で聴かせてくれるんです。当時はインターネットもなかったので、カセットテープで参加者全員に送られてきたりしていました。それらは、自分の作品とはレベルが違いすぎてショックを受ける日々でした。そうした作品を聴きながら、こうすればこう聞こえるんだ、とか、ああすればいいんだ、と色んな気付きや学びが多くありまして、人の曲を分析するのもやっぱり楽しかったんです。まだ誰からも評価すらしてもらえなくても、自分が求めている音に少しずつ近づいていくのがとにかく面白かったですね。

それでも、当時は音楽を仕事にするなんて思ってもみなかったですね。スポーツの話と同じで、方や音楽の知識もなく、演奏も飛び抜けて優れていたわけでもなく、コンテストに応募しても入賞すらできない。一方で小さい頃から音楽教育をうけてきた人たちはたくさんいるわけで、僕にしてみれば高校2年の終わりくらいから始めて、純粋に好きだから、という理由だけで就ける仕事ではないと思っていました。でもいよいよ進路を決める時期に、やっぱり自分は音楽が好きだし、将来、長い時間携わる仕事も音楽が良いと。それで改めて音楽を学ぶことに決めて東京の学校に進学させてもらいました。

― ネロ 何よりもご自身で一番興味が持てたもの、面白いと思えたものが音楽で、それゆえに音楽を生業とされて、でもその事に向かって躊躇なく突き進む事、そこには強い意志があったからこその事だと思います。

光田:ある種の覚悟はしましたね。当たり前ですけど応援してくれた家族に対してもそうですし、自身で決めた事に対して最大限に努力し結果を出す、それは自ずと意識していたのかもしれません。

僕が通った学校の教育方針なのかもしれませんが、生徒の作品を誰彼構わずとにかく褒めるんです。もちろん大抵の人は褒められて悪い気はしないと思いますけど、音楽を教わりに学校に来ているわけですし、僕にはどうしても違和感がありました。それで一度、先生に“本当の事を言ってください”と意見した事があるんです。自分が作った曲の何処が悪いのか、何が素人っぽいのか、きちんと教えてほしいと。先生はどう思われたか分かりませんが、それからは人が変わったように細かく教えてくれました。もっとこうすると良くなる、こうやると高級感がでる、こういう部分が足りていない、など細かく教えていただけるようになりました。そのフィードバックを全て自分自身に反映させると、やっぱり見違えるように曲が良くなっていくんです。格段に。

先生の中に藝大出身のオーケストレーションを教えていただいた先生がいまして、ちょうど当時、世界陸上が東京で開催されまして、確か1991年だったかな。オープニングのテーマ曲を担当したのが「坂本龍一」さんで、開会式のその他の曲や生演奏を担当したのがその先生でした。僕は先生のお手伝いとして呼んでいただき、機材の運搬やセッティングなどをさせてもらいました。その打ち上げの時だったかな? 名だたる音楽の先生方が参加されていたわけですけど、僕を紹介するときに、“こんなレベルのやつらを教えているんだよ”みたいな結構酷い(笑))紹介をされて・・・。でも、心の中ではいつか貴方を超えてやるって、思っていましたね。実力もまだ足りていない、当時の自分自身を奮い立たせる良い機会でしたし、おかげで学生時代はモチベーションを維持出来ました。でも、今考えると学生の立場ではありましたが、先生には色々な現場に連れていってもらいましたし、学校だけでは得られないものを沢山教えてもらったと思っています。本当に感謝しています。


『CHRONO CROSS 20th Anniversary Live Tour 2019 RADICAL DREAMERS Yasunori Mitsuda & Millennial Fair Live Audio at NAKANO SUNPLAZA 2020』

光田氏が総監督となり開催された『CHRONO CROSS 20th Anniversary Live Tour 2019 RADICAL DREAMERS Yasunori Mitsuda & Millennial Fair Live Audio at NAKANO SUNPLAZA 2020』のストリーミング配信が決定、好評配信中。今作はPlayStationソフトクロノ・クロスライブツアーの中から、2020年1月25日に中野サンプラザで行われたツアーファイナル公演の音源を収録しています。
(配信サイトはこちら)
タイトル:CHRONO CROSS 20th Anniversary Live Tour 2019 RADICAL DREAMERS Yasunori Mitsuda & Millennial Fair Live Audio at NAKANO SUNPLAZA 2020
アーティスト:Yasunori Mitsuda & Millennial Fair
配信地域:全世界
レーベル:SLEIGH BELLS
発売元:有限会社プロキオン・スタジオ

― ネロ そのようなご経験を通じて、それがご自身でも認めるものであったからこそ、それを超えたいという想いと、超えられるという確信をお持ちだったのでしょうね。

光田:そうかもしれません。確信と言う点では、やっぱり音楽って理論だけでは成立しないと思うんです。楽典もオーケストレーションもまともにできなくても、時間をかけて学ぶことは出来ます。でも感性って学ぼうと思って学べるものではないと思っています。それは自分が育ってきた環境や人生観、また、辛く悲しいことから嬉しい出来事まで、自分自身がこれまで生きてきて経験してきたことがとても重要だと思っています。例えばこういったシチュエーションの曲を書いてほしいと頼まれても、そのシチュエーションと同じような経験をしているのとしていないのでは大きな違いだと思うわけです。作曲する上でその世界観と自分の経験を重ねる事が出来るかどうか。そういった意味では幼少期に経験したことが大事だと感じます。自然の中で飛び回り、四季を感じ、田舎の景色や土の感触、草木の臭い、そういったものがいつしか自分の身体にしみ込んでいるからこそ、懐かしさを感じる曲が書けるのではないかと思います。人生経験こそが曲の表現力の源と言っても過言ではないと思います。

作曲における着想や世界観の作り方については、これまでも何度か教えてほしいと頼まれたことがありました。ですが、やはりそれは今お話しした理由からなかなか伝えるのが難しい。それは、生きてきた環境も違えば、経験してきたことが人それぞれ違うからです。逆に、僕も他の作曲家さんの曲のようには作れないわけです。例えば、曲の雰囲気をよりゴージャスにする事はオーケストレーションやアレンジで出来たとしても、曲そのものを引き上げる事は出来ないんですよね。曲って生まれた時点でやっぱりその人の感性が形となって現れる訳で。

ですので、勉強すればいい曲が作れる、と思っている人もいるかもしれませんが、僕はそうじゃない気がしています。勿論、理論やオーケストレーションという“技術”は必要だとは思いますが、それを詳しく学んだだけで良い曲が書けるわけではないのかなと。逆に理論ばかり考えて作っている曲は面白いと感じないですよね。だって、そこには“情景”が見えませんからね。そういう作り方はあまりいい事ではないと思っています。それを続けると“自分らしさ”が削がれていきますし、特徴的で刺激的な楽曲は生まれませんからね。聴く人の感情をゆさぶるのは理論ではなく、“情景の共有”だと思っています。だからこそ自分の感性を大事に、素直に曲を作るべきだと思いますし、人生経験こそが最大の個性なのかなと思います。

― ネロ 光田さんの楽曲には何度も驚かされました。ゲームをプレイしながら流れてくる楽曲って、フィールドを歩く時、バトルの時、ある程度の曲調は予想できるとして、光田さんの楽曲は良い意味で裏切られます。誤解を恐れずに言うとゲームの枠に収まっていないというか、え、何この曲?違うスピーカーから流れてる?って本当に思うくらいにインパクトがあるんです。これはお世辞なしに思う事なんですけど、ゲーム自体も面白ければ、そこで聴ける光田さんの楽曲とで2つの次元で2倍楽しめるわけです。贅沢だなって。それでいてゲームのシーンとこれ以上にないほどマッチしていて。と、ご本人を前にして感想を述べてしまいました...

光田:いえいえ、それは嬉しいですね。僕はよく海外の色んな国へ足を運ぶようにしているのですが、これはまさに今の話が繋がる訳でして、日本とは違う街並み、食べ物、そこに住んでいる人たちの生活も当然ですけど僕が住んでいる日本とは違います。その違いを体感する事が僕にとって凄く重要でして、アイルランドに足を踏み入れたから作れる楽曲、オーストリア、インド、イタリア、スペインなど、そこに行かなければ作れない楽曲というものがやっぱりある訳です。僕は民族音楽を好んで自分の音楽に取り入れたりしますけど、必ず現地に足を運び、できる限り現地の風土や楽器などを勉強し感じながら音楽を作るようにしています。それをやらないと結局“にわか”になってしまうし、日本にはそういう音楽が多い気がします。自分自身の拘りとして、知らないものは必ず体験をし、“にわか”にならないよう気をつけています。

― ネロ 今日、光田さんにお会いする前から、ゲーム音楽であってもきっとご自身の感性に素直に曲を書かれる方なんだろうな、と感じていました。今のお話をお伺いしとても腑に落ちています。

光田:感性…、でちゃいますよね(笑) それが個性に繋がっていくわけですが・・・。

一 同(笑)

でも、作曲を始めた当時は“個性”ってなんだろう?と悩んだ時期もありました。

/ 多くのファンの方は光田さんの作品に、特に何を求めているとお考えでしょう /

光田:聴いてくださる皆さんからの感想で最も多いのが“どこか懐かしい感じがする”、という意見です。それは多分、田舎の懐かしさなんだと思います。もちろん、田舎だけとは限らないかもしれませんが、僕が根っからの田舎育ちなので、聴いてくださる方にもそういうのが自然と伝ってしまうのかなと思います。田舎固有のなんともいえないアンニュイな感じがおそらく自分の中にあって、そういった部分が音楽を通して出てきてしまうのかもしれませんね。海外だとアイルランドやフィンランドもそうですけど、自然に恵まれている部分が音楽を通して伝わり、より惹かれていくのかなと。また、現地の人達と話してみても、自然の話や歴史など共感できる部分が多くあるんです。

それと、曲を書いている最中に、なんとなく自分の中の昔の思い出が曲の中に入っていく感覚があるんです。意識しているわけではないんですけど。でも、だからこそでしょうか、本当によく言われます。僕の楽曲は“懐かしい感じがする”と。

また、幼少期の体験が感性や個性に繋がってくるというお話をさせていただきましたが、それだけでなく、今の経験や体験も同じように、作品にとっては大事だと考えています。自分の経験や体験の芽が出てくるのが10年くらいの周期で、例えば20代に書いた曲は10代の経験が元となっていることが多いですし、40代の頃に経験していた事が50代の音楽に現れてくる、といったような感じです。ですので、よく自社のメンバーにも話をしますが、10年先の自分をイメージする事。10年先に自分はどうなっていたいか、それを明確にした上で今何をやるべきか。そして、それに向かって経験を積み上げていくという事ですね。そうしないと10年後には何も芽が出てこないし、自分の周りには空箱だけが積み重なっている状態になります。そうならないように10年先を常に見据えて今を生きる事が大事なのではないかと思っています。

― ネロ ご自身ではこれからの10年をどのように見据えられているのでしょうか。

光田:個人的にやりたい事は沢山あります。例えば映像やストーリー、世界観まで何もない所から全てを生み出すという事はやってみたいですね。今は劇判作家として与えられた映像やストーリーを一表現者として音楽へと変えて返していくことが楽しいので更に経験を積んでいる最中ですが、常に新しいものや衝撃的なもの、そして記憶に残る音楽を作っていくことは僕の昔から変わらないテーマです。視覚的な部分から始まっている工程を、そのもっと前、一から全て自分で作り出すというようなことをやってみたいと思っています。

以前、「キリテ/kiRite」という個人的なアルバムを制作しました。音楽とストーリーが一体となったコンセプチュアルなアルバムで、ストーリーは『クロノ・クロス』のシナリオを書かれた加藤正人さんにご担当いただきました。どのようなテーマで制作しようかと悩んだのですが、この時、一つ僕の中に「生と死」というものがありました。kiRiteを制作する前に多くのファンの方からよくお手紙を貰っていました。当時、インターネット自体はありましたが今より便利ではありませんでしたので、音楽の感想などは基本お手紙でした。そんな中、今の自分が置かれている環境に凄く思い悩まれ、ネガティブな思考を持っている方が何人かいらっしゃって、僕の作品を聴いて元気になれた、勇気を貰った、といった言葉が書かれていました。それはとてもとても嬉しい言葉で、自分の作り出した音楽が何かしらの力になれた事に喜びを感じました。自分のオリジナル作品を作る上で、もっと力になれないかと考え、kiRiteを制作したわけです。この作品を発表してからも、嬉しい反響はいただき、今でも作って良かったなと。今後もそういった事をもっともっとしていきたいなと思っています。

― ネロ 聴く人を、次元も時間も超越した世界へ、または記憶の何処へ誘う、それは音楽だからこそ、光田さんが手がける音楽だからこそで、僕自身、何度も勇気づけられました。あえてお聞きすると、ご自身では今後どのようなメッセージを音楽にのせて伝えていきたいとお考えでしょうか。

光田:そうですね・・・。海外を巡る事が多い自分だからこそ思う事かもしれませんけど、日本はやっぱり平和な国だと思うんです。昨今、世界では色々な問題が起きていますけど、世界的にみても日本は平和な国だと思います。政治や世界情勢に関しても多少の関心はあるにせよ、自分の生活を脅かすものではないので深く考える事はないでしょう。今、日本でたくさんの人に聴かれる楽曲はそういった見知らぬ世界ではなく、より身近なリアルであったり、恋愛をテーマにするものばかりです。特に10代や20代は実際それが身近なテーマですから仕方ないですよね。自分はもう少し広いテーマで作品を作っていけたらと思っています。知らない世界のことや、知らない歴史、また、人は常に困難な事と隣り合わせで生きていたりします。そうしたテーマにフォーカスし、向き合う事で何かしらの突破口を見つけられる作品が作れると素敵だなと思います。そんな夢物語のような作品を作ってみたいという想いはあります。今の僕にもまだ見えていない何かがあるかもしれません。直ぐにはできないかもしれないけど10年後にはそれが実現できているといいなと。

もう一つ、思うところがありまして・・・。昔の日本は"多様性"を重んじる風潮がありました。今は時代が変わり“多様性”という言葉をよく耳にします。人それぞれの主張や表現方法、生き方など色々な形があってしかるべき、ということでこの言葉を使うようになったのでしょう。しかし、僕には"多様性"と言う言葉は一部の大人が都合良く使えるように使い始めた言葉のような気がしているんです。少し何か目立った事をすると“多様性”の時代だから、と片付けられる。多少、人に迷惑が掛かろうともお構いなし。逆に自分と相いれない場合はSNSなどで批判する。“多様性”とは真逆のことが起きています。自分は“協調性”も“多様性”もどちらも大切だと思っています。大事なのは"人に迷惑をかけない”、“人が嫌な思いをしない”、というこの一点だと思っているわけです。個性はいい事だ、これからは“多様性”の時代と謳われたところで、大多数の人に迷惑をかけては元も子もありません。ですので、“多様性”という言葉は自分勝手な大人が他人を顧みず、納得させる上の都合がいい言葉なのかなって。実際、子供たちの世界では大人が思っている以上に“協調性”を凄く気にして生きています。変わった髪形、変わったアイテム、変わったしゃべり方、変わった行動、それだけで輪から外されたりします。大人が“多様性”を強調したところで、子供たちの世界は全く別物です。そういった点で、ただ“多様性”という言葉を使っている気がしてならないのです。"多様性"を謳うなら、大人がしっかりと導いていくべきだと感じています。

未来に向かっていくうえでのメッセージ性ということで、社会へのそういった違和感にあえてフォーカスした作品も作ってみたいなと思っています。出る杭は打たれるではないですけど、そうならない、他人を尊重する世界に近づくともっと素敵な世の中になりますよね。

ーー 次回へ続く

(記事/FORTIS.TOKYO ネロ)